LOGIN曲を渡してから一週間が経った。
響は大学の図書館で、いつものように音楽理論の本を読んでいた。だが、文字は頭に入ってこない。藤堂がどんな歌詞を書いているのか、どんな風に歌うのか――それが気になって、集中できなかった。
渡してしまったのだ。
自分の心の奥底まで、他人に託してしまった。
響は本を閉じ、窓の外を見つめた。初夏の陽射しが眩しい。キャンパスでは学生たちが思い思いに過ごしている。芝生に座り込んで談笑するもの、楽器を抱えて練習室へ向かうもの、恋人と腕を組んで歩くもの――みな、普通の日常を生きている。
自分もかつては、そういう日常を夢見ていた。誰かと笑い合い、心を通わせ、愛し合う。だが、高校でのあの出来事が、すべてを変えた。
「響、いた!」
突然、背後から声がかけられた。振り返ると、藤堂が笑顔で立っていた。白いTシャツが初夏の光に映えており、手には楽譜のような紙の束を持っていた。
「……なんの用」
「歌詞、できたんだ」
藤堂は嬉しそうに楽譜を広げた。周囲から「静かに」という視線が突き刺さる。響は小さく身を縮めたが、藤堂はまったく気にする様子もなく続けた。
「見てくれよ」
響はためらいながらも、楽譜を受け取った。そこには、丁寧な字で歌詞が書き込まれていた。インクの色にも濃淡があり、何度も推敲を重ねた跡が伺えた。
ひとりの夜に 僕は歌う
誰にも届かない この想いを
闇の中で 光を探して
君の名前を 呼び続ける
響は息を呑んだ。歌詞は、まるで響の心を読んだかのようだった。孤独、渇望、そして――誰かを求める切実な想い。自分が旋律に託した感情が、言葉になって目の前にある。
「どう?」
藤堂が期待に満ちた目で尋ねる。その瞳は、まっすぐに響を見つめていた。
「お前の曲に合ってるかな」
「……どうして、こんな歌詞が書けるんだ」
響の声は震えていた。藤堂はきょとんとした顔をした。
「どうしてって……お前の曲を聴いて、自然に浮かんできたんだ。お前の音楽には、そういう想いが詰まってる気がして」
「……」
響は楽譜を見つめた。自分が音に込めた感情を、藤堂は正確に言葉にしている。それが嬉しくもあり、恐ろしくもあった。
自分の秘密が、暴かれていくような感覚。
心の奥底に沈めていたものが、白日の下に晒される恐怖。
「今週の金曜、また俺のライブがあるんだ」
藤堂は楽譜を指さした。その指先が、響の書いた音符をなぞる。
「そこで、この曲を歌いたい。来てくれないか?」
「……ごめん、無理」
響は即座に答えた。藤堂は驚いた顔をした。
「なんで?」
「俺の曲を人前で歌うなんて、無理だ」
「どうして? すごくいい曲なのに」
「そういう問題じゃない」
響は立ち上がり、荷物をまとめ始めた。図書館の静けさの中、バッグを引き寄せる音だけが妙に大きく聞こえた。
「やっぱり、曲を返してほしい」
「待ってよ」
藤堂は響の腕を掴んだ。その手は温かく、力強かった。
「なんでそんなこというんだ? お前、俺を信じてくれたんじゃないのか?」
「信じてない」
響は冷たく言い放った。自分の声が、氷のように冷たいことに気づく。
「最初から、信じてなんかいない」
藤堂の顔が曇った。だが、彼は響の腕を離さなかった。
「嘘だ。お前、俺に曲を託してくれた。それは、少しでも信じてくれたからだろ?」
「……違う」
響は視線を逸らした。藤堂の真剣なまなざしに、耐えられなかった。
「……本当は、ただしつこかったから渡しただけなんだ」
「そんなわけないだろ」
藤堂の声が強くなった。周囲の学生たちが、二人を見始める。ひそひそと囁く声が聞こえる。響は焦った。
「離して。目立つ」
「じゃあ、ちゃんと話をしよう」
藤堂は響の手を引いた。その動きは強引だが、どこか優しさがあった。
「ここじゃ何だから、場所を変えよう」
響は抵抗したが、藤堂の力は強かった。結局、響は藤堂に引きずられるようにして図書館を出た。背後から、好奇の視線が突き刺さるのを感じる。
*
二人は大学の裏手にある、人気のない中庭に来た。
ここは普段、誰も来ない場所だった。木々に囲まれ、風が葉を揺らす音だけが聞こえる。初夏の蒸し暑い空気が、二人を包んだ。
響はベンチに座らされ、うなだれた。藤堂は向かいのベンチに座り、真剣な顔で響を見つめた。
「なあ、響。お前、なんでそんなに怖がってるんだ?」
「……怖がってなんかいない」
「怖がってるよ」
藤堂は首を振った。その表情には、怒りではなく、心配が滲んでいた。
「お前の曲が人前で歌われるのを、すごく怖がってる」
響は何も言えなかった。藤堂の指摘は、的確だった。心の奥底を見透かされたような気がして、居心地が悪い。
「誰かに、何かいわれたんだろ?」
藤堂は静かに続けた。その声は、驚くほどやさしかった。
「お前の音楽が気持ち悪いとか、そういうこと」
響の体が強張った。呼吸が浅くなる。藤堂は、それを見逃さなかった。
「やっぱりな。誰にいわれたんだ?」
「……関係ない」
「関係あるよ」
藤堂は身を乗り出した。二人の距離が縮まる。
「それがお前を縛ってる。お前の音楽を、お前自身を、否定させてる」
「うるさい」
響は顔を上げ、藤堂を睨んだ。だが、その瞳には涙が滲んでいた。
「何も知らないくせに」
「じゃあ教えてくれよ」
藤堂は真剣なまなざしで語った。その目には、一切の嘘がなかった。
「俺、お前のこと知りたいんだ」
響は唇を噛んだ。この男は、なぜそこまで踏み込んでくるのだろう。なぜ、自分のことを知りたがるのだろう。そして、なぜ――こんなにもやさしいのだろう。
風が吹いた。木々が揺れ、葉擦れの音が二人の沈黙を埋める。
「……高校の時」
響は小さく呟いた。喉が渇いていて、声が掠れる。
「好きな人がいた」
藤堂は黙って聞いている。じっと、響の言葉を待っている。
「その人に、告白した。そしたら……」
響の声が震える。あの時の記憶が、鮮明に蘇る。
「気持ち悪いって、いわれた」
藤堂の表情が変わった。だが、彼は何も言わずに待っている。
「それだけじゃない」
響は拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込む。
「学校中に噂が広まって、みんなが俺を避けるようになった。廊下ですれ違うと、あからさまに距離を取られた。机の中には、気持ち悪いって書かれたメモが入ってた」
言葉にすると、あの時の痛みが再び胸を締め付ける。呼吸が苦しい。
「俺の音楽も、同じようにいわれた。俺の曲は暗い、気持ち悪い、普通じゃないって」
響の視界が滲んだ。涙が溢れそうになる。
「だから俺は、もう誰にも聴かせないって決めたんだ」
沈黙が流れた。
響は、藤堂が何かいうのを待った。きっと、彼も同じことをいうだろう。気持ち悪い、と。普通じゃない、と。そして、離れていくのだろう。
けれど、藤堂の口から出た言葉は、響の予想を大きく裏切るものだった。
「その人、最低だな」
響は顔を上げた。藤堂は怒りに満ちた表情でいった。その声は、震えていた。
「好きだっていってくれた相手に、気持ち悪いなんていうやつ、最低だ。そんなやつ、人として終わってる」
「……え」
「お前は何も悪くない」
藤堂は強くいった。その言葉は、響の心に深く突き刺さった。
「誰を好きになるかなんて、自由だ。それを否定するやつがおかしいんだ」
響は言葉を失った。藤堂は続ける。
「お前の音楽も、全然気持ち悪くない」
藤堂は楽譜を取り出した。その手が、わずかに震えている。
「これ、見ろよ。こんなに美しい旋律を、こんなに深い感情を込められる曲を、誰が気持ち悪いなんて言えるんだ?」
「でも……」
「でもじゃない」
藤堂は響の肩を掴んだ。その手は、温かかった。
「お前は間違ってない。お前を否定したやつらが、間違ってるんだ」
響の目に、涙が溢れそうになった。誰かに、こんなふうに受け入れられたのは初めてだった。胸の奥が熱くなる。
「だから、頼む」
藤堂は真剣な目でいった。その瞳は、響だけを見つめていた。
「俺に、お前の曲を歌わせてくれ。お前の音楽が、どれだけ素晴らしいか、みんなに伝えさせてくれ」
「……無理だ」
響は首を振った。涙が頬を伝う。
「また、笑われるだけだ」
「絶対に、誰にもお前のことを笑わせたりしない」
藤堂は力強くいった。その声には、確かな決意があった。
響は藤堂を見つめた。彼の瞳には、嘘がなかった。本気で、自分を守ろうとしている。
だが――。
「……やっぱり無理」
響は立ち上がった。藤堂の手を振りほどく。
「ごめん、曲を返してほしい」
「響!」
藤堂の声を背に、響は走り出した。中庭を出て、大学の門へ向かう。心臓が早鐘を打つ。息が苦しい。足が縺れそうになるが、走り続けた。
――信じられない。
藤堂の言葉はやさしかった。その優しさが、かえって怖かった。もし信じて、また裏切られたら――今度こそ、立ち直れない。
響は大学を出て、駅へ向かった。電車に乗り、部屋に戻る。扉を閉め、鍵をかけ、カーテンを閉める。蒸し暑い空気が部屋にこもっていたが、気にしなかった。
暗い部屋の中で、響は床に座り込んだ。
藤堂の言葉が、頭の中で反響する。
「お前は間違ってない」
本当に、そうなのだろうか――。
響は自分の胸に手を当てた。心臓が、まだ激しく鼓動している。
翌朝早く、まだ夜明け前の暗いうちから、響は荷物をまとめ始めた。 カーテンの隙間から、街灯の光がかすかに差し込む。ロサンゼルスの街は、夜でも完全に暗くなることはない。どこかで車の音がして、遠くでサイレンが鳴っている。 身の回りの物だけをスーツケースに詰める。服、洗面用具、パスポート。楽譜や作曲ノートは、すべてスタジオに残すことにした。もし晴真が必要になったら、それを使ってほしいと思った。 三年間の思い出が、次々と頭に浮かんでくる。 初めて一緒に作った曲。大学の音楽室で、夜遅くまで二人でピアノを囲んでいた。晴真が即興で歌詞をつけ、響がそれに合わせてコードを変えていく。完成した時、二人で顔を見合わせて笑った。 初めてのライブ。緊張で手が震えていた響の手を、晴真がそっと握ってくれた。『大丈夫、響の曲は最高だから』その言葉に、どれだけ救われたか。 初夏の夜、大学のキャンパスでの初めてのキス。発表会が終わった後、興奮冷めやらぬ二人は中庭を歩いていた。噴水の水音が静かに響き、月明かりが石畳を照らしていた。晴真が立ち止まり、響の手を取った時、世界が止まったように感じた。 東京ドームで五万人を前に演奏した時の興奮。ステージから見える無数のペンライトは、まるで星空のようだった。演奏が終わった後、晴真が響を抱きしめて『やったな、響』と囁いた。 すべてが、かけがえのない宝物だった。 でも、もうそれも終わりだ。 震える手で、手紙を書いた。何度も書き直し、涙で文字が滲む。ホテルの便箋に、万年筆で一文字ずつ丁寧に書いていく。『晴真へ 突然いなくなって、ごめん。 でも、これが一番いい方法だと思った。 晴真の才能は、世界レベルだ。 もっと優秀なプロデューサーや作曲家と組めば、 きっとスーパースターになれる。 自分のような中途半端な人間は、晴真の隣にいる資格なんてない。 三年間、本当に幸せだった。 晴真と出会えて、一緒に音楽を作れて、 愛し合えて、それは俺の人生の宝物だ。
その週末、響は美咲にメールを送った。日本との時差を考慮し、向こうの昼間に届くように送った。『美咲、相談がある。晴真のことなんだけど……』 すぐに返事が来た。美咲は昔から、レスポンスが早い。『篠原くん、どうしたの? 何かあった?』 響は、マイケルの言葉や、自分の不安を正直に打ち明けた。画面に向かって指を動かしながら、涙が零れそうになる。長文のメールになってしまったが、美咲はすぐに返信をくれた。『篠原くん、それは違うと思う。私、大学時代から二人を見てきたけど、藤堂くんが一番輝いてるのは、篠原くんと一緒にいる時だよ』 美咲のメールは続いた。『覚えてる? 大学の時の発表会。藤堂くんが篠原くんの曲を歌った時、会場中が涙してた。あれは技術じゃない。二人の心が通じ合ってたからこそ、生まれた感動だった』『確かに、技術的にもっと優秀な作曲家はいるかもしれない。でも、藤堂くんが求めてるのは、技術じゃなくて、心が通じ合える音楽なんじゃないかな。篠原くんの曲には、藤堂くんへのまっすぐな気持ちが込められている。それが一番大事なんだと思う』 美咲の言葉に、響は涙が出そうになった。画面が滲んで、文字が読めなくなる。『でも、俺のせいで晴真のチャンスを潰してるかも』『それは藤堂くんが決めることでしょう? 篠原くんが勝手に決めつけちゃダメだよ。ちゃんと話し合った?』 美咲の指摘は的確だった。響は、晴真と向き合うことから逃げていた。自分の不安を、晴真にぶつけることが怖かったのだ。『それに、篠原くん。愛って、相手の幸せだけを考えることじゃないと思う。一緒にいることで、お互いが幸せになれる。それが本当の愛なんじゃない?』 美咲の最後の言葉が、響の心に深く刺さった。 けれど月曜日になっても、響の態度は変わらなかった。 朝のスタジオは、カリフォルニアの強い日差しで明るく照らされていた。機材の金属部分が光を反射し、きらきらと輝いている。しかし、響の心は晴れることがなかった。 スタジオでは晴真を避け続け、休憩時間
その夜、響は一人で悩み続けた。ホテルの部屋は静かで、エアコンの低い音だけが聞こえる。ベッドに横たわり、天井を見つめる。ロサンゼルスの街の明かりが、カーテンの隙間から差し込んでいた。ネオンサインの青い光が、天井に揺れる影を作っている。 晴真の将来を考えれば、もっと優秀な人間と組んだ方がいいのかもしれない。自分のエゴで、晴真の可能性を潰してはいけない。 響は、三年前の出会いを思い出していた。 あの日、大学の音楽室で一人、ピアノに向かっていた自分。誰にも聴かせるつもりのない曲を弾いていた時、晴真が入ってきた。夕暮れの光が窓から差し込み、埃がきらきらと舞っていた。古いアップライトピアノの鍵盤が、手の温もりで少し温かくなっていた。『その曲、すごくいい。俺に歌わせてくれない?』 晴真の真っすぐな言葉が、響の心の扉を開いた。あの時の晴真の瞳は、夕日を受けて金色に輝いていた。それから、二人で数え切れないほどの曲を作ってきた。深夜のファミレスで楽譜を広げ、コーヒーを何杯も飲みながら議論した。時には喧嘩もしたが、音楽への情熱は変わらなかった。 初めてのライブの日。小さなライブハウスで、観客は五十人ほどだった。自分の曲を観客が認めてくれた瞬間だった。 そして、初めてキスをした夜。初夏の大学のキャンパス。発表会が終わった後、二人は誰もいない中庭を歩いていた。月明かりが噴水の水面をきらきらと照らし、夜風が優しく頬を撫でていた。晴真が突然立ち止まり、響の手を取った。 その時の晴真の表情は、今まで見たことがないほど真剣だった。そして、ゆっくりと顔を近づけてきた。キャンパスの街灯が二人を包み、初めての口づけは温かくて、少し震えていた。 でも、もしかしたら晴真にとっては、僕と出会ったことで遠回りになってしまったのかもという思いが頭をよぎる。もし、もっと早い段階でより経験豊富な作曲家と組んでいれば、今ごろ世界的なスターになっていたかもしれない——ビルボードチャート上位に名を連ねて、大規模な世界ツアーを行い、たくさんのファンに囲まれていたかもしれない。 翌日から、響は晴真と距離を置き始めた。 朝
朝の光がスタジオの大きなガラス窓から差し込んでいた。ロサンゼルスの空は抜けるように青く、遠くにハリウッドサインがかすかに見える。響は楽譜を前に座りながら、どこか上の空だった。 新しいプロデューサー、ジェシカ・チャンとの初顔合わせの時間が近づいている。マイケルの一件以来、スタジオの空気は重苦しく、誰もが腫れ物に触るような態度だった。 会議室のドアが開き、アジア系の女性が入ってきた。三十代半ばほどで、黒いパンツスーツを端正に着こなしている。長い黒髪を後ろで一つに束ね、シルバーの細いフレームの眼鏡が知的な印象を与えていた。手にはレザーのポートフォリオと、スターバックスのコーヒー――ただし、一つだけ。「初めまして、ジェシカ・チャンです。これから皆さんのプロデュースを引き継がせていただきます」 ジェシカの英語は、マイケルよりもゆっくりで聞き取りやすかった。アジア系特有のイントネーションがかすかに残っているが、それがかえって親近感を与える。そして何より、その視線がプロフェッショナルだった。晴真を見る時も、他のメンバーを見る時も、同じように冷静で客観的だ。「まず、これまでの録音素材を聴かせてもらいました」 ジェシカがポートフォリオを開き、細かくメモが書き込まれた楽譜のコピーを取り出した。響は驚いた。マイケルは一度も楽譜に目を通したことがなかったのに、ジェシカはすでに詳細な分析をしている。「素晴らしいポテンシャルを持っています。特に響さんの作曲と晴真さんの歌声の相性は抜群ですね。第三楽章の転調部分、あそこは天才的です」 ジェシカは響の名前もきちんと呼んでくれた。しかも、具体的にどの部分が優れているのかを指摘している。マイケルのように、晴真だけを特別扱いすることはない。「ただ、方向性を少し修正したいと思います」 ジェシカがラップトップを開き、画面を全員に見せた。そこには、世界各国の音楽チャートと、アジア系アーティストの成功例が並んでいる。「もっと日本らしさを活かしながら、世界に通用する音楽を作りましょう。東洋と西洋、両方の良さを融合させてこそ、このプロジェクトの個性が生きてくると思います。実際、BTSや
翌日、スタジオに着くと、マイケルはいつも通りだった。昨夜のことなど、なかったかのように振る舞っている。完璧な笑顔、プロフェッショナルな態度。しかし、晴真への視線は昨日よりもさらに熱を帯びていた。まるで、昨夜の拒絶が、かえって執着心に火をつけたかのように。「おはよう、晴真。昨夜はごめんね。酔わせすぎてしまって」 マイケルの謝罪は、表面的なものだった。キスしようとしたことには一切触れない。その図々しさに、響は思わず寒気がした。 レコーディングが進む中、マイケルは相変わらず晴真への接触を続けた。肩に手を置き、腰に手を回し、耳元で囁く。その度に、晴真が身を固くするが、マイケルは気にしない様子だ。むしろ、晴真の反応を楽しんでいるようにさえ見える。獲物を追い詰める捕食者のような執拗さで、晴真を追い詰めていく。響は、その様子を見ているしかできない。プロデューサーに逆らえば、プロジェクトが頓挫する可能性がある。そのジレンマが、響を苦しめた。 その週の金曜日、マイケルがまた晴真を誘った。「週末、僕の別荘でパーティーがあるんだ。音楽業界の人たちが集まる。晴真も来ないか?」 晴真の顔が曇った。「君のような才能を、みんなに紹介したい。きっと、将来の役に立つはずだ。有名プロデューサーやレーベルの重役も来る」 マイケルの言葉は、断りにくいものだった。結局、メンバー全員で参加することになった。断れば、今後の仕事に影響が出るかもしれない。そんな計算も、マイケルは見透かしているのだろう。 土曜日の夕方、マイケルの別荘に到着した。マリブの海岸沿いにある豪華な邸宅は、白い壁と大きなガラス窓が印象的だった。プールサイドにはすでに大勢の人が集まっていた。音楽関係者、俳優、モデル。華やかな世界の住人たちが、シャンパンを片手に談笑している。響は、その光景に圧倒された。これが、世界の音楽業界なのか。きらびやかで、洗練されていて、そして恐ろしいほど遠い世界。自分がその中にいることが、まるで夢のようだった。いや、悪夢かもしれない。「ようこそ! 飲み物は自由に取って」 マイケルが晴真の肩を抱いて、ゲストたちに紹介していく。
一週間のプリプロダクションが終わり、いよいよ本格的なレコーディングが始まることになった。最初の週は、リズムセクションの録音から始まった。田中のドラムと山本のベースを録音していく間、響は引き続き作曲作業を続け、晴真はマイケルとのボーカルトレーニングを受けていた。スタジオの空気は、日を追うごとに重くなっていった。マイケルの晴真への執着が、誰の目にも明らかになってきたからだ。休憩時間には、マイケルは常に晴真の隣にいて、他のメンバーが近づくと、さりげなく晴真を独占しようとする。その様子は、まるで恋人のような振る舞いだった。 ある日の午後、マイケルが晴真に提案した。「今夜、時間がある? 僕の知り合いのボーカルトレーナーを紹介したいんだ」 晴真の顔が曇った。「今夜ですか?」 晴真の声には、明らかな戸惑いが滲んでいた。「ああ、彼女は元オペラ歌手で、今はポップスのトレーニングもしている。君の声域を広げるのに、きっと役立つはずだ」 マイケルは説明したが、その目は晴真から離れない。晴真が響を見た時、その目は助けを求めているようだった。「響も一緒に……」「いや、これはボーカリストのための特別なセッションだから」 マイケルが遮った。その口調は穏やかだが、有無をいわせない強さがあった。「響には、明日のレコーディングに向けて、アレンジを仕上げてもらいたい。それぞれが、自分の役割に集中すべきだ」 正論だった。響は何もいえない。プロデューサーの指示に従うのは当然のことだ。しかし、胸の奥で警鐘が鳴り響いていた。 その夜、響は一人でホテルの部屋にいた。ルームサービスで頼んだハンバーガーも、半分しか食べられなかった。冷えたフライドポテトが、皿の上で油を吸っている。その光景が、自分の心境を表しているようで、響は苦笑した。テレビをつけても、英語のニュースやドラマが理解できず、すぐに消してしまった。窓の外では、ロサンゼルスの夜景が煌めいている。無数の光が、まるで地上の星のようだ。でも、その美しさも響の心を慰めてはくれない。東京の夜景とは違う、異国の光。その一つひとつが、自分には関係のない他人の生活