Home / BL / 響きあうカデンツァ / 第三章 拒絶と誘い

Share

第三章 拒絶と誘い

Author: 海野雫
last update Last Updated: 2025-10-07 19:00:05

 曲を渡してから一週間が経った。

 響は大学の図書館で、いつものように音楽理論の本を読んでいた。だが、文字は頭に入ってこない。藤堂がどんな歌詞を書いているのか、どんな風に歌うのか――それが気になって、集中できなかった。

 渡してしまったのだ。 

 自分の心の奥底まで、他人に託してしまった。

 響は本を閉じ、窓の外を見つめた。初夏の陽射しが眩しい。キャンパスでは学生たちが思い思いに過ごしている。芝生に座り込んで談笑するもの、楽器を抱えて練習室へ向かうもの、恋人と腕を組んで歩くもの――みな、普通の日常を生きている。

 自分もかつては、そういう日常を夢見ていた。誰かと笑い合い、心を通わせ、愛し合う。だが、高校でのあの出来事が、すべてを変えた。

「響、いた!」

 突然、背後から声がかけられた。振り返ると、藤堂が笑顔で立っていた。白いTシャツが初夏の光に映えており、手には楽譜のような紙の束を持っていた。

「……なんの用」

「歌詞、できたんだ」

 藤堂は嬉しそうに楽譜を広げた。周囲から「静かに」という視線が突き刺さる。響は小さく身を縮めたが、藤堂はまったく気にする様子もなく続けた。

「見てくれよ」

 響はためらいながらも、楽譜を受け取った。そこには、丁寧な字で歌詞が書き込まれていた。インクの色にも濃淡があり、何度も推敲を重ねた跡が伺えた。

 ひとりの夜に 僕は歌う

 誰にも届かない この想いを

 闇の中で 光を探して

 君の名前を 呼び続ける

 響は息を呑んだ。歌詞は、まるで響の心を読んだかのようだった。孤独、渇望、そして――誰かを求める切実な想い。自分が旋律に託した感情が、言葉になって目の前にある。

「どう?」

 藤堂が期待に満ちた目で尋ねる。その瞳は、まっすぐに響を見つめていた。

「お前の曲に合ってるかな」

「……どうして、こんな歌詞が書けるんだ」

 響の声は震えていた。藤堂はきょとんとした顔をした。

「どうしてって……お前の曲を聴いて、自然に浮かんできたんだ。お前の音楽には、そういう想いが詰まってる気がして」

「……」

 響は楽譜を見つめた。自分が音に込めた感情を、藤堂は正確に言葉にしている。それが嬉しくもあり、恐ろしくもあった。

 自分の秘密が、暴かれていくような感覚。

 心の奥底に沈めていたものが、白日の下に晒される恐怖。

「今週の金曜、また俺のライブがあるんだ」

 藤堂は楽譜を指さした。その指先が、響の書いた音符をなぞる。

「そこで、この曲を歌いたい。来てくれないか?」 

「……ごめん、無理」

 響は即座に答えた。藤堂は驚いた顔をした。

「なんで?」

「俺の曲を人前で歌うなんて、無理だ」

「どうして? すごくいい曲なのに」

「そういう問題じゃない」

 響は立ち上がり、荷物をまとめ始めた。図書館の静けさの中、バッグを引き寄せる音だけが妙に大きく聞こえた。

「やっぱり、曲を返してほしい」

「待ってよ」

 藤堂は響の腕を掴んだ。その手は温かく、力強かった。

「なんでそんなこというんだ? お前、俺を信じてくれたんじゃないのか?」

「信じてない」

 響は冷たく言い放った。自分の声が、氷のように冷たいことに気づく。

「最初から、信じてなんかいない」

 藤堂の顔が曇った。だが、彼は響の腕を離さなかった。

「嘘だ。お前、俺に曲を託してくれた。それは、少しでも信じてくれたからだろ?」

「……違う」

 響は視線を逸らした。藤堂の真剣なまなざしに、耐えられなかった。 

「……本当は、ただしつこかったから渡しただけなんだ」

「そんなわけないだろ」

 藤堂の声が強くなった。周囲の学生たちが、二人を見始める。ひそひそと囁く声が聞こえる。響は焦った。

「離して。目立つ」

「じゃあ、ちゃんと話をしよう」

 藤堂は響の手を引いた。その動きは強引だが、どこか優しさがあった。

「ここじゃ何だから、場所を変えよう」

 響は抵抗したが、藤堂の力は強かった。結局、響は藤堂に引きずられるようにして図書館を出た。背後から、好奇の視線が突き刺さるのを感じる。

 *

 二人は大学の裏手にある、人気のない中庭に来た。

 ここは普段、誰も来ない場所だった。木々に囲まれ、風が葉を揺らす音だけが聞こえる。初夏の蒸し暑い空気が、二人を包んだ。

 響はベンチに座らされ、うなだれた。藤堂は向かいのベンチに座り、真剣な顔で響を見つめた。

「なあ、響。お前、なんでそんなに怖がってるんだ?」

「……怖がってなんかいない」

「怖がってるよ」

 藤堂は首を振った。その表情には、怒りではなく、心配が滲んでいた。

「お前の曲が人前で歌われるのを、すごく怖がってる」

 響は何も言えなかった。藤堂の指摘は、的確だった。心の奥底を見透かされたような気がして、居心地が悪い。

「誰かに、何かいわれたんだろ?」

 藤堂は静かに続けた。その声は、驚くほどやさしかった。

「お前の音楽が気持ち悪いとか、そういうこと」

 響の体が強張った。呼吸が浅くなる。藤堂は、それを見逃さなかった。

「やっぱりな。誰にいわれたんだ?」

「……関係ない」

「関係あるよ」

 藤堂は身を乗り出した。二人の距離が縮まる。

「それがお前を縛ってる。お前の音楽を、お前自身を、否定させてる」

「うるさい」

 響は顔を上げ、藤堂を睨んだ。だが、その瞳には涙が滲んでいた。

「何も知らないくせに」

「じゃあ教えてくれよ」

 藤堂は真剣なまなざしで語った。その目には、一切の嘘がなかった。

「俺、お前のこと知りたいんだ」

 響は唇を噛んだ。この男は、なぜそこまで踏み込んでくるのだろう。なぜ、自分のことを知りたがるのだろう。そして、なぜ――こんなにもやさしいのだろう。

 風が吹いた。木々が揺れ、葉擦れの音が二人の沈黙を埋める。

「……高校の時」

 響は小さく呟いた。喉が渇いていて、声が掠れる。

「好きな人がいた」

 藤堂は黙って聞いている。じっと、響の言葉を待っている。

「その人に、告白した。そしたら……」

 響の声が震える。あの時の記憶が、鮮明に蘇る。

「気持ち悪いって、いわれた」

 藤堂の表情が変わった。だが、彼は何も言わずに待っている。

「それだけじゃない」

 響は拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込む。

「学校中に噂が広まって、みんなが俺を避けるようになった。廊下ですれ違うと、あからさまに距離を取られた。机の中には、気持ち悪いって書かれたメモが入ってた」

 言葉にすると、あの時の痛みが再び胸を締め付ける。呼吸が苦しい。

「俺の音楽も、同じようにいわれた。俺の曲は暗い、気持ち悪い、普通じゃないって」

 響の視界が滲んだ。涙が溢れそうになる。

「だから俺は、もう誰にも聴かせないって決めたんだ」

 沈黙が流れた。

 響は、藤堂が何かいうのを待った。きっと、彼も同じことをいうだろう。気持ち悪い、と。普通じゃない、と。そして、離れていくのだろう。

 けれど、藤堂の口から出た言葉は、響の予想を大きく裏切るものだった。

「その人、最低だな」

 響は顔を上げた。藤堂は怒りに満ちた表情でいった。その声は、震えていた。

「好きだっていってくれた相手に、気持ち悪いなんていうやつ、最低だ。そんなやつ、人として終わってる」

「……え」

「お前は何も悪くない」

 藤堂は強くいった。その言葉は、響の心に深く突き刺さった。

「誰を好きになるかなんて、自由だ。それを否定するやつがおかしいんだ」

 響は言葉を失った。藤堂は続ける。

「お前の音楽も、全然気持ち悪くない」

 藤堂は楽譜を取り出した。その手が、わずかに震えている。

「これ、見ろよ。こんなに美しい旋律を、こんなに深い感情を込められる曲を、誰が気持ち悪いなんて言えるんだ?」

「でも……」

「でもじゃない」

 藤堂は響の肩を掴んだ。その手は、温かかった。

「お前は間違ってない。お前を否定したやつらが、間違ってるんだ」

 響の目に、涙が溢れそうになった。誰かに、こんなふうに受け入れられたのは初めてだった。胸の奥が熱くなる。

「だから、頼む」

 藤堂は真剣な目でいった。その瞳は、響だけを見つめていた。

「俺に、お前の曲を歌わせてくれ。お前の音楽が、どれだけ素晴らしいか、みんなに伝えさせてくれ」

「……無理だ」

 響は首を振った。涙が頬を伝う。

「また、笑われるだけだ」

「絶対に、誰にもお前のことを笑わせたりしない」 

 藤堂は力強くいった。その声には、確かな決意があった。

 響は藤堂を見つめた。彼の瞳には、嘘がなかった。本気で、自分を守ろうとしている。

 だが――。

「……やっぱり無理」

 響は立ち上がった。藤堂の手を振りほどく。

「ごめん、曲を返してほしい」

「響!」

 藤堂の声を背に、響は走り出した。中庭を出て、大学の門へ向かう。心臓が早鐘を打つ。息が苦しい。足が縺れそうになるが、走り続けた。

 ――信じられない。

 藤堂の言葉はやさしかった。その優しさが、かえって怖かった。もし信じて、また裏切られたら――今度こそ、立ち直れない。

 響は大学を出て、駅へ向かった。電車に乗り、部屋に戻る。扉を閉め、鍵をかけ、カーテンを閉める。蒸し暑い空気が部屋にこもっていたが、気にしなかった。

 暗い部屋の中で、響は床に座り込んだ。

 藤堂の言葉が、頭の中で反響する。

「お前は間違ってない」

 本当に、そうなのだろうか――。

 響は自分の胸に手を当てた。心臓が、まだ激しく鼓動している。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 響きあうカデンツァ   第四章 理解者の声

     ライブから三日後、響は大学の音楽理論の講義を受けていた。 教授の声が遠くに響く。黒板には複雑な和声進行が書かれているが、響には内容が頭に入ってこない。チョークが黒板を叩く音だけが、妙に大きく感じられる。 藤堂の歌声が、まだ耳に残っている。 あの夜、藤堂は響の音楽を守った。笑った観客に怒りをぶつけ、響の曲の美しさを訴えた。そして、観客たちは最終的に拍手を送った。 ――本当に、自分の音楽は受け入れられたのだろうか。 それとも、藤堂の力だっただけなのだろうか。 響は自信が持てなかった。心の奥底に、まだ疑念が残っている。 講義が終わり、響は荷物をまとめた。周囲の学生たちが立ち上がり、教室が雑踏に包まれる。その時、隣の席に座っていた女子学生が声をかけてきた。「篠原くん、少し話せる?」 振り返ると、ピアノ科の佐伯美咲が微笑んでいた。長い黒髪を後ろで結び、清楚な雰囲気を纏う彼女は、響と同じ二年生だった。いつも静かに講義を受けている姿を見かけるが、話したことはほとんどない。「……何?」「お茶、付き合ってくれない? 話したいことがあるの」 美咲の声は穏やかだが、その目には強い意志が宿っていた。 響は戸惑った。美咲とは同じクラスだが、これまで言葉を交わしたのは数えるほどしかない。だが、断る理由も見つからなかった。「……いいけど」「ありがとう。じゃあ、学内のカフェで」 二人は講義棟を出て、学内カフェへ向かった。初夏の陽射しが眩しい。カフェは昼休みの学生たちで賑わっており、談笑する声や笑い声、食器の音が響いている。響は人混みを避けるようにして、窓際の隅の席に腰を下ろした。 美咲はコーヒーを二つ持ってきて、響の前に座った。カップから立ち上る湯気が、二人の間で揺れていた。「実はね」 美咲は穏やかな笑みを浮かべた。「金曜日、藤堂くんのライブに行ったの」 響の心臓が跳ねた。手のひらが、じんわりと汗ばむ。「『ひとりの夜に』、とても素敵だったわ」

  • 響きあうカデンツァ   3-3

     金曜日の夜。 響は再び、ライブハウス「月光」に向かった。梅雨の晴れ間で、夜空には星が瞬いている。前回と同じ席に座り、ステージを見つめる。 客席には、前回よりも多くの観客が座っていた。藤堂の人気が、少しずつ広がっているのだろう。ざわめく声、笑い声、期待に満ちた空気。 やがて照明が落ち、ステージに光が集まった。藤堂が登場する。彼は客席を見渡し、響を見つけると、小さく頷いた。その笑顔は、いつもより緊張しているようにも見えた。 ライブが始まった。一曲目、二曲目と、藤堂は力強く歌う。観客は盛り上がり、手拍子をし、声援を送る。藤堂の歌声は、会場全体を包み込んでいた。 そして、三曲目。 藤堂がマイクを握り、静かに語り始めた。「次の曲は、俺にとって特別な曲です」 会場が静まる。観客たちが、藤堂の言葉に耳を傾ける。「大切な人が作ってくれた、とても美しい曲。初めて歌います」 響の心臓が跳ねた。手のひらに汗が滲む。「聴いてください――『ひとりの夜に』」 静かなピアノの伴奏が流れ始める。響が作った旋律だ。音が会場に広がっていく。 そして、藤堂が歌い始めた。 ひとりの夜に 僕は歌う 誰にも届かない この想い 響は息を呑んだ。 藤堂の歌声は、やさしく、切なく、響の心に直接語りかけてきた。それは、響が曲に込めた孤独を、痛みを、そして――誰かを求める切実な想いを、すべて包み込んでいた。 闇の中で 光を探して 君の名前を 呼び続ける 観客たちは静かに聴き入っている。誰も声を出さず、ただ藤堂の歌に耳を傾けている。会場全体が、一つの呼吸をしているようだった。 だが、その時だった。 客席の後方から、小さな笑い声が聞こえた。「なんだよこの曲、暗すぎだろ」「ホントだよね。なんか、気持ち悪い」 響の体が凍りついた。血の気が引く。 ――やっぱり。 やっぱり、笑われた。

  • 響きあうカデンツァ   3-2

     翌日、響は大学を休んだ。 部屋に閉じこもり、パソコンの前に座る。だが、作曲は何も進まなかった。鍵盤に指を置いても、音が浮かばない。頭の中は、藤堂のことでいっぱいだった。 携帯電話が震えた。画面には藤堂の名前が表示されている。『今日、来てないけど大丈夫?』 響は既読をつけたまま、返信しなかった。指が動かない。何を返せばいいのか、わからなかった。 しばらくして、また携帯電話が震えた。『昨日はごめん。無理に聞き出そうとした。でも、俺の気持ちは変わらない。お前の曲を歌いたい』 響は携帯を伏せた。画面の光が消える。 その日、藤堂からは何度もメッセージが届いた。だが、響は一度も返信しなかった。読むことさえ、できなかった。 夜になり、響は窓を開けた。外は雨が降っていた。雨粒が窓ガラスを叩き、街の灯りを滲ませる。梅雨の匂いが部屋に流れ込んでくる。 響は雨音を聞きながら、藤堂のことを考えていた。 ――あの人は、本当に自分の曲を歌いたいのだろうか。 それとも、ただの同情なのだろうか。 響にはわからなかった。誰かの優しさを、素直に受け取る自信がなかった。 * 三日後、響は大学に戻った。 講義に出て、図書館に行く。いつもの日常に戻ろうとした。しかし、藤堂のことが頭から離れなかった。彼の言葉が、繰り返し響く。 昼休み、響は学食を避けて購買でパンを買い、音楽棟の階段に座って食べた。誰も来ない場所だ。窓から見える空は、梅雨の合間の晴れ間を見せていた。 だが、やはり藤堂は現れた。「いた」 藤堂は少し疲れた顔で、響の隣に座った。目の下に薄い隈ができている。「……なんで、ここがわかったんだ」「探したんだよ。三日間、ずっと」 藤堂は小さく笑った。その笑顔は、いつもより控えめだった。 響は何も言えなかった。三日間、自分を探していたという事実が、胸に重く響く。「なあ、響」

  • 響きあうカデンツァ   第三章 拒絶と誘い

     曲を渡してから一週間が経った。 響は大学の図書館で、いつものように音楽理論の本を読んでいた。だが、文字は頭に入ってこない。藤堂がどんな歌詞を書いているのか、どんな風に歌うのか――それが気になって、集中できなかった。 渡してしまったのだ。 自分の心の奥底まで、他人に託してしまった。 響は本を閉じ、窓の外を見つめた。初夏の陽射しが眩しい。キャンパスでは学生たちが思い思いに過ごしている。芝生に座り込んで談笑するもの、楽器を抱えて練習室へ向かうもの、恋人と腕を組んで歩くもの――みな、普通の日常を生きている。 自分もかつては、そういう日常を夢見ていた。誰かと笑い合い、心を通わせ、愛し合う。だが、高校でのあの出来事が、すべてを変えた。「響、いた!」 突然、背後から声がかけられた。振り返ると、藤堂が笑顔で立っていた。白いTシャツが初夏の光に映えており、手には楽譜のような紙の束を持っていた。「……なんの用」「歌詞、できたんだ」 藤堂は嬉しそうに楽譜を広げた。周囲から「静かに」という視線が突き刺さる。響は小さく身を縮めたが、藤堂はまったく気にする様子もなく続けた。「見てくれよ」 響はためらいながらも、楽譜を受け取った。そこには、丁寧な字で歌詞が書き込まれていた。インクの色にも濃淡があり、何度も推敲を重ねた跡が伺えた。 ひとりの夜に 僕は歌う 誰にも届かない この想いを 闇の中で 光を探して 君の名前を 呼び続ける 響は息を呑んだ。歌詞は、まるで響の心を読んだかのようだった。孤独、渇望、そして――誰かを求める切実な想い。自分が旋律に託した感情が、言葉になって目の前にある。「どう?」 藤堂が期待に満ちた目で尋ねる。その瞳は、まっすぐに響を見つめていた。「お前の曲に合ってるかな」「……どうして、こんな歌詞が書けるんだ」 響の声は震えていた。藤堂はきょとんとした顔をした。

  • 響きあうカデンツァ   2-4

     月曜日。 響は大学に着くと、すぐに音楽室へ向かった。約束の時間まではまだ一時間あったが、落ち着かなくて、早めに来てしまった。廊下を歩く足音が、妙に大きく聞こえる。 音楽室には誰もいなかった。響はアップライトピアノの前に座り、USBメモリをぎゅっと握りしめた。手のひらに汗が滲む。 ――本当に、渡していいのだろうか。 迷いが、また湧き上がってくる。だが、もう引き返せない。藤堂は本気で、自分の曲を求めている。それに応えないのは、失礼だ。 そう自分に言い聞かせていると、扉が開いた。「おはよう、響!」 藤堂が笑顔で入ってきた。その明るさに、響の緊張が少しだけ和らいだ。「……おはよう」「で、曲は? 持ってきてくれた?」 藤堂は期待に満ちた目で響を見た。響は無言でUSBメモリを差し出した。その手が、わずかに震えている。「これに、入ってる」「ありがとう!」 藤堂はうれしそうにそれを受け取った。「早速聴いていい?」「……好きにしろ」 藤堂は音楽室のオーディオ機器にUSBメモリを接続し、再生ボタンを押した。 静かなピアノの旋律が、部屋に流れ始める。 響は藤堂の反応を見ないようにした。見るのが怖かった。もし、彼が顔をしかめたら。もし、「やっぱり暗い」といったら。心臓が早鐘を打つ。呼吸が浅くなる。 曲は三分ほどの短い作品だった。だが、響にとっては、自分の心そのものだった。孤独の夜に流した涙、誰にも言えなかった想い、そして――消えない傷。すべてが、この旋律に込められている。 曲が終わった。 沈黙が流れる。 響は息を止めて、藤堂の言葉を待った。時間が永遠のように感じられる。 しばらくして、藤堂が口を開いた。「……すごい」 響は顔を上げた。藤堂は目を輝かせて、響を見ていた。その瞳には、驚きと感動が宿っている。

  • 響きあうカデンツァ   2-3

     ライブ後、響は会場の外で藤堂を待った。他の観客たちが次々と帰っていく中、響はビルの前でじっと立っていた。夜風が頬を撫で、遠くから酔客の笑い声が聞こえてくる。初夏の夜は心地よく、街路樹の葉が風に揺れている。 しばらくして、藤堂が出てきた。汗を拭きながら、響を見つけると満面の笑みを浮かべた。「響! 来てくれてたんだな!」「……ああ」「どうだった?」 藤堂は期待に満ちた目で響を見つめた。まるで、子供が親に褒めてもらいたがるような、純粋な期待。響は少し迷ったあと、小さく頷いた。「……よかった」「マジで!?」 藤堂はうれしそうに響の肩を叩いた。「ありがとう! なんか、本当に歌った甲斐があった」「……最後の曲」 響は顔を逸らしながらいった。「あれ、よかった」「だろ? あれ、お前のために選んだんだ」 響は驚いて藤堂を見た。藤堂は照れくさそうに頭を掻いた。「お前の曲を聴いたら、自然とああいう雰囲気の歌を歌いたくなったんだ。お前にこの想いが届いていたら、うれしい。伝わったかな?」 響の胸が、また熱くなった。こんなふうに、誰かが自分のために何かをしてくれたことなんて、これまでなかった。家族以外で、自分のことを考えてくれる人がいるなんて、思いもしなかった。「……あの歌声なら」 響は小さく呟いた。「俺の曲も、歌えるかもしれない」 藤堂の目が大きく見開かれた。数秒の沈黙のあと、彼は興奮した様子で響の手を握った。その手は温かく、力強かった。「本当か!?」「……条件がある」「なんでも聞く!」 響は藤堂を真っすぐ見つめた。夜の街灯が、二人の顔を照らしている。「俺の曲を笑わないこと。気持ち悪いとか、暗いとか、そういうことをいわないこと」「当たり前

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status